昭和期II 第1部第5巻 上(昭和11−12年7月 対中国関係)

日本外交の歩みを記録した唯一の外交史料集。

大学、図書館、研究機関等には是非とも備え付けたい蔵書。

昭和期II 第1部第5巻 上(昭和11−12年7月 対中国関係)

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昭和期II 第1部第5巻 上(昭和11−12年7月 対中国関係)

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●編集・発行:外務省
●本文881頁(索引は下巻に記載)


本巻の構成


一 日中外交関係一般
 1 広田三原則承認問題
 2 「對支實行策」の策定
 3 川越・張群会談
 4 対中政策の再検討
二 日中諸案件交渉
 1 一般問題
 2 中国関税問題
 3 日中経済提携問題
 4 成都総領事館再開問題
 5 上海および青島における紡績罷業事件
 6 青島方面への中国税警団移駐問題
 7 汕頭における邦人巡査拘引事件
三 中国における邦人遭難事件
 1 成都事件および北海事件
 2 上海における中山水兵射殺事件
 3 その他の諸事件
四 華北問題
 1 一般問題
 2 内蒙工作と綏遠事件

(以上、上冊)

概要


一 日中外交関係一般

 本項目では日中国交改善交渉を中心に、日本の対中国政策における基調や、日中関係の基本的な展開を示す文書を採録しています。本項目は4つの小項目に分かれています。

1 広田三原則承認問題

 広田弘毅外相は昭和10年秋、中国側に対して日中国交調整のための三原則(広田三原則)を提示しました。昭和11年1月、広田外相は前年の交渉を踏まえ、議会演説において中国側が広田三原則に賛意を示したと述べました。しかし中国側はこれに対して広田三原則に同意を与えていないとのステートメントを発表しました。本項目では広田三原則の承認をめぐって行われた両国間のやり取りに関する文書を中心に採録しています。(26文書)

2 「對支實行策」の策定

 昭和11年8月4日、四相会議(総理・外・陸・海)において「帝国外交方針」が決定されました。同方針は対ソ政策に外交の重点を置きつつ、極東におけるソ連の赤化進出に対して日満中が共同して防衛するとの政策を打ち出しました。またその具体的施策として「対支実行策」が策定されました。本項目ではこれら関連文書を中心に、4月から8月までの日中国交調整をめぐる両国間のやり取りに関する文書を採録しています。(22文書)

3 川越・張群会談

 本項目では、昭和11年9月から12月にかけて、主に川越茂大使と張群外交部長との間で行われた南京での一連の会談に関する文書を採録しています。

 8月24日に成都事件が発生すると、日本側は同事件の善後処理交渉の中で、中国側に排日取締の不徹底を反省し国交調整への誠意を披瀝するよう要求し、その具体的方法として、日中防共協定の締結や華北への広範な自治制度設定などを求めました。これに対し中国側は、冀東政権の解消、華北密輸の停止などを討議事項として提示し、交渉は膠着状態となりました。10月8日の川越大使と蒋介石行政院長との会談でも事態は打開されませんでした。交渉はその後も防共協定締結問題を中心に続けられましたが、綏遠事件によって中国側の対日態度が硬化すると、川越大使は交渉継続を断念し、12月3日、張部長との会談で交渉打切りを通告しました。(71文書)

4 対中政策の再検討

 本項目では、昭和12年2月に成立した林銑十郎内閣においてなされた対中政策の再検討をめぐる文書を中心に採録しています。

 林内閣の佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や前内閣の外交政策再考について言及し、中国側から好感をもって迎えられました。また4月16日に四相(外、蔵、陸、海)によって決定された「対支実行策」では、華北分治や中国内政を乱す政治工作は行わないことを明記するなど対中政策の転換が図られました。しかし、この政策転換には関東軍などの強い反対がありました。6月に林内閣が倒れると、後継の近衛文麿内閣においては、川越大使が新政策を否定するような趣旨の発言を行ったとの新聞報道があり、中国側に大きな反響がありました。(30文書)

二 日中諸案件交渉

 日中二国間で交渉された様々な案件に関する文書を集めた項目です。本項目は7つの小項目に分かれています。

1 一般問題

 日中間の二国間交渉案件のうち、文書の残存状況などから「2」以下で小項目立てできない問題を集めて構成する項目です。日中航空連絡問題や日本側特務機関の活動に対する中国側抗議などに関する文書のほか、中国における抗日世論の高揚振りに関する文書も採録しています。(56文書)

2 中国関税問題

 日本は以前より中国輸入関税が日本品に対し禁止的高税率であるとして、税率の引下げを要求していました。当該期においては、日華貿易協会の児玉謙次会長らの主導により、両国民間ベースでの税率協議が行われ、日本側要望を取り入れた税率改訂案が作成されました。孔祥熙財政部長は同案を基礎とした改訂案を作成し、昭和11年8月、行政院会議に提案しましたが、結局、各方面の賛同を得られず、税率改訂の実施には至りませんでした。本項目ではこの関係文書を採録しています。(21文書)

3 日中経済提携問題

 昭和12年3月、日華貿易協会の児玉会長を団長とする経済使節団の訪中が実現しました。この関連文書のほか、本項目では、華北における紡績業関係、長廬塩の輸入問題、福建省における満州産豆粕の輸入問題などに関する文書を採録しています。また、昭和12年1月に為替管理を強化するための大蔵省令が施行されると、邦人当業者は統制の緩和を強く要望しました。この問題についても関係文書を採録しています。(65文書)

4 成都総領事館再開問題

 昭和11年7月、外務省は満州事変に伴い一時閉鎖されていた成都総領事館の再開を決定し、岩井英一書記生を総領事代理に任命しました。しかし中国外交部は、成都が開港地でないことを理由に総領事館設置を認めず、8月下旬に岩井が重慶に到着すると、現地では激しい反対運動が行われ、その結果、成都事件が発生しました(同事件については項目「三」の「1」に関係文書を採録)。事件発生後、中国側は総領事館再開を原則として認めましたが、様々な理由をつけて日本側外交官の現地赴任実現を延引する態度を続けました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(32文書)

5 上海および青島における紡績罷業事件

 昭和11年11月上旬に上海で発生した邦人経営紡績工場の労働争議は、同月下旬、青島に波及しました。青島市政府の取締りは徹底を欠き、事態を重く見た日本側は12月3日、海軍陸戦隊を青島に上陸させて各工場を警備するとともに、事件関与の物証を得るため、市党部など関係機関の強制捜査を行いました。その後日本側は、青島市長の陳謝、国民党部の解散、事件扇動者の市外追放などを要求し、市長の応諾をもって同月23日、陸戦隊の引揚げを完了しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(30文書)

6 青島方面への中国税警団移駐問題

 昭和12年5月、中国税警団2,000名が青島を目指して北上を開始しました。同税警団は抗日意識が強く、その移駐は前年12月の青島紡績罷業に対する日本陸戦隊の上陸に基因するとの情報もあり、日本側ではその実力および背後事情等につき情報収集に努めました。同税警団が青島近郊に到着すると、日本側は不測の事端発生を懸念して、青島市内に進駐しないよう中国側に求めるとともに、兵力の大きい税警団の存在が居留民の不安となっているので、団員数を減少するよう要請しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(21文書)

7 汕頭における邦人巡査拘引事件

 昭和12年5月、汕頭領事館の青山清巡査が中国側警察当局により捕縛、連行される事件が発生しました。中国側は同巡査が転居に際して届け出をしなかったため、届け出を求めたところ、同巡査がこれを拒否して暴力を振るったので逮捕したと主張し、日本側は元来外国人には届け出の義務はなく、中国警察当局の逮捕は不当であると主張し、新聞紙上に報道されて両国世論に大きい反響を呼びました。事件解決交渉では、日中双方による現地調査も行われましたが、最終決着を見ないまま、日中戦争の勃発に至りました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(23文書)

三 中国における邦人遭難事件

 中国において頻発した邦人遭難事件は、日中関係に多大な影響を与えた当該期における特徴的な事象でした。そこで「二 日中諸案件交渉」から分離・独立した項目として、3つの小項目からなる本項目を設定しました。

1 成都事件および北海事件

 昭和11年8月と9月に相次いで発生した邦人遭難事件です。成都事件は、総領事館再開のため重慶に赴いた岩井書記生に同行した新聞記者2名が、他の邦人2名とともに岩井に先駆けて成都入りしたところ、8月24日、宿泊先で再開に反対する現地群衆の襲撃を受け、記者2名が死亡した事件です。北海事件は9月3日、広東省北海において邦商中野順三が経営する店舗に暴漢が侵入し、同人を殺害した事件です。日本は、川越・張群会談において両事件の善後処理を一括して交渉しました。同会談は12月3日に打ち切りとなりましたが、事件解決交渉はその後も続けられ、同年末、賠償や関係者の処分を取り決めた解決公文が交換されました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(47文書)

2 上海における中山水兵射殺事件

 昭和10年11月に発生した本事件(上海共同租界で日本海軍の陸戦隊員中山秀雄が射殺された事件、事件発生に関する関係文書は昭和期II第一部第四巻に採録)は、昭和11年4月、日本側の捜査に基づき、上海工部局警察が犯人を逮捕しました。5月から開始された公判では、一旦犯行を自供した被告が自白を強要されたとして無罪を主張するなど混迷し、日本側は公正な判決が下るよう中国側に再三注意喚起を行いました。結局、第一審判決は同年10月に言い渡され、主犯格2名には死刑判決が下されました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(34文書)

3 その他の諸事件

 「1」「2」の事件のほか、当該期には本邦人を狙ったテロ事件が続発しました。本項目では被害者が死亡し、重要な外交案件となった4事件、すなわち、汕頭での邦人巡査射殺事件(昭和11年1月21日発生、以下同)、上海での邦商射殺事件(同7月10日)、漢口での邦人巡査射殺事件(同9月19 日)、上海での日本人水兵射殺事件(同9月23日)の関係文書を採録しています。(34文書)

四 華北問題

 当該期の華北地方における日中間の交渉案件は、両国関係において特段の重要性を有していました。そこで「二 日中諸案件交渉」から分離・独立した項目として、5つの小項目からなる本項目を設定しました。

1 一般問題

 華北に関する問題の中、「2」以下で採りあげた案件以外の様々な問題を集めた項目です。

 昭和10年の分離工作によって華北地方には冀東防共自治政府と冀察政務委員会が生まれました。陸軍中央は昭和11年1月、「北支処理要綱」を作成し、宋哲元委員長を通じて冀察政務委員会による実質的自治を実現せしめ、自治体制が確立すれば冀東政権を合流させる方針を決定しました。また8月には華北経済開発を重視した「第二次北支処理要綱」を策定し、9月30日、支那駐屯軍の田代皖一郎司令官と宋委員長との間に「経済開発ニ関スル諒解事項」が署名調印されました。一方、外務省では須磨弥吉郎南京総領事の献策に基づき、新たな華北自治機構として「北支五省特政会」の設置が検討されました。この特政会構想は川越・張群会談で提議されましたが、中国側は特殊行政機構の創設は承認できないとして拒絶しました。

 本項目ではこのほか、昭和11年5月の支那駐屯軍増強問題、同年10月に合意の交換公文が調印された華北自由飛行問題、冀東政権解消に関する冀察政務委員会の要望などに関する文書を採録しています。(87文書)

2 内蒙工作と綏遠事件

 華北分離工作の進展に伴い、関東軍の内蒙に対する工作も急速に進展しました。工作の中心人物と目された徳王が、昭和11年5月に内蒙軍政府を設立して、親日満の旗幟を鮮明にすると、国民政府中央も危機感を強め、綏遠省に中央軍を動員して防備を固めるなど軍事衝突は必至の情勢となりました。同年11 月上旬、内蒙軍は、田中隆吉特務機関長の計画に基づいて綏遠省攻略の軍事行動を開始しました。しかし、中央軍との本格的な戦闘が始まると内蒙軍は壊滅敗走し、同月23日には軍政府の拠点である百霊廟が陥落しました。さらに同地奪還を試みた内蒙軍は、内部離反を起こして惨憺たる敗北を喫する結果となりました。この綏遠事件をめぐっては、中国国内に全国規模の綏遠援助運動が発生し、抗日気運の高揚を懸念した日本側は21日、日本は事件に関与していない旨を外務当局談話として発表しました。しかし、事件の及ぼした影響は大きく、川越・張群会談は打切りのやむなきに至りました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(60文書)